まえがき

突如として訪れたインドアが推奨される時代。ゲーム産業とレンタルビデオ産業が潤っているらしい。ということは、逆に言えばレンタルビデオ屋で借りれたものも今年は借りれないのである。大抵が貸し出し中になってるから。
しかもその上、今年は『ジョニーは戦場に行った』でも借りようかと思っていたら、親父に「いい加減正月からそんな悲惨な映画ばかり見る癖なんとかしろ」と怒られが発生したのでフィルターがかかる。畢竟年末年始ぐらいは映画を見ることにしていたのが、今年はそうもいかなかった。なので今年は本数が少ない。ご了承を。

目次

  1. 東京無国籍少女
  2. 茶の味
  3. 攻殻機動隊(95')
  4. イエスタデイをうたって(漫画版)
  5. グリモア 私立グリモワール魔法学園histoire

東京無国籍少女(2015, 押井守)

東京無国籍少女
本田博太郎
2015-11-11


第一印象・予習情報と概略

正気と狂気の共犯、実在と虚構の混濁……なんてテーマは押井守のお得意領野らしい。もちろん私のごときポモを僭称する人間にとっては大好物のテーマである。
しかしこれがまたまだるっこしい。例のアクションシーンがあることを予め知らないとひたすら退屈である。何せ例のアクションシーンは後から15分そこらの場所であり、それまで延々と80分に渡ってなんだかよくわからない雲をつかむような話が続く。逆に言えばこの雲をつかむような感じが好きな人、より正確に言って雲を掴もうとしたがる人には面白いことと思われる。つまり、クライマックスにどう繋がるのかに絶えず思いを巡らし、目を凝らしてほんの些細な違和感も見逃すまいと目を凝らし、休みなく思考を働かせるのが全く苦にならないなら、一見の価値はあるかもしれないということである。たとえ映像作品は全くに不慣れでもそうである。というよりむしろこのような鑑賞様式はどちらかというと映像より文字媒体でコンテンツを摂取するときの感覚に近い。であればこそ例のめまいぐるしく銃火白刃煌めき鮮血迸る視覚的な鮮烈さが一層際立つ。

ちなみに、映像作品なぞ滅多に見ない私が押井守を鑑賞するのは実はこれが初めてであったりする。何なら押井守が実写映画もやってたのも初めて知ったくらい。
ならなんでこっちから入ったのか。例のアクションシーンに七月鏡一と同じ匂いをかぎ取って……かというとそれだけではない。むしろ私の関心を惹いたのは……

ジャンスカJK!ウオオオオ!!!!

これ、これ。これ!これ!!!
「女子高生」性、より抽象的に言って少女性の最も強力で分かりやすい記号といえば、セーラー服である。万人共通。基本原理。コモン・センス。社会通念。ブレザーが出てくるのは少女性に加えて「現代的な」あるいは「都市的な」という属性を付加したいときだろうか。
しかしここで「少女性」とは一体何だろうと一旦考えねばならないだろう。ある人にとっては彼女を珍しいもの、可愛らしいもの、幻想的なものなどに駆り立てる強烈な好奇心であるかもしれない。ある人にとっては恋への純真さかもしれない。
ところがある人にとって、少女性の最も重要な原理は純朴さである。即ちある意味「イモっぽい」ほどの素朴さと純良さ、全くに汚濁に無縁であるかのような純粋さないし「幼さ」。
他のあらゆる可能性を押しのけて素朴なジャンパースカート制服でなければならない理由、ジャンパースカート制服に固有の「少女性」、ジャンパースカート制服の世界観とは、およそこのようなものである。

しかしなんでブラウスが角襟なんだ!丸襟の方がジャンスカらしさが際立つに決まってるだろ!まったく押井ことをしたものだ!

ジャンスカJKの世界観

さても、「退屈な」80分間はまさしくこんなジャンスカJKの世界観が延々と続く。白く、無垢で、上品で、即ちユートピア的であり、しかしまさしくそのことによって退屈であるような、そういう世界観である。
その徹底ぶりはといえば、まず何より女学生の制服がくだんの徹底的なジャンパースカートで統一されていることに始まり、校舎の内部も総じてヴィクトリア様式の壮麗豪華な装飾が並び、授業パートもこれまた「真っ白な」石膏で出来た彫刻ばかりが延々と続く……といった具合で具体的にどうとは言えないのだが何やら「虚構的」である。絵になりすぎているという意味での虚構性、必要以上に自然であるという意味での不自然性。

猥褻、実に猥褻。

そういう嘘くさいまでの作り込みがこれまた逆説的にフェティッシュでマニエリスティックなイメージビデオやポルノビデオのごときいかがわしさを醸し出している。要はヴィクトリア朝時代の(逆説的な)性的過剰さと根を同じにしている。ところでメード服とジャンスカ制服って似てますよね。特にヴィクトリア朝様式のメード服(いわゆるロング丈)。
例えば、緊縛モノが好きな人なら日本家屋や土蔵の一角でセーラー服JKが麻縄で緊縛されているのは一つの様式美であることをよく知っていることと思われるが、一体どうして日本家屋なのかと考えれば、今挙げたような過剰な作り込み、全くに偏執的な程の作り込みの原理――つまりマニエリスム――が働いていると省察することは難しくない。言うまでも無く、学校と廃墟と日本家屋が緊縛の舞台に好まれるのは「作り込み」だからである。また、レーベルで言えばミラージュはこの空気感にこだわった「作り過ぎ」な作品を多く出していて学生の頃は非常にお世話になった覚えがある。というよりあの辺りから性嗜好が固定され始めた感がある。もっと買いたかったが残念ながらとうに廃盤になってしまって現在は入手不能である。

……で、何の話でしたっけ。そうそう、ヴィクトリア朝的ないかがわしさでした。嘘くさいぐらい「お綺麗」ものだけを存在させてしまうことによって、却って猥褻さが漂ってしまう、ふとしたところにイヤらしさを感じ取ってしまう、そういうお話だったと思いますけれど、どうでしたっけ。

で、こんな具合にとかくフェティッシュである。フェティッシュな眼で作品を鑑賞してみると例の「オチ」の前に(くだんの「なんとなくおかしいな……」とは別に)、明らかにおかしい描写に気付いたりもする。例えばジャンスカ制服の少女がトイレの床に突き倒されようが、鉄屑を加工しようが、床で寝ようが、その制服については何故か汚れ一つつかない。ジャンスカ制服といえば真っ白に漂白されたブラウスがあってのものであるし(←いい加減うるさい)、現に全編通して少女達のブラウスは偏執的なまでに白いのだから、ほんの少しの汚れが付いても分かるはずなのである。これはおかしい。

クライマックスのガンアクション

これがあのショッキングシーンになるとそれまでの白さが打って変わって赤い斑と飛沫をあちこちに作るが、もちろん制服も例外ではない。ほんのさっきまでいたいけなジャンパースカート制服でうなだれていた少女が物凄い殺気を放って血化粧で暴れ狂うのだからもうそのコントラストは凄絶なものである。

しかしまあ……自動小銃みたいな長物に似合うのはロングスカートだね。火器じゃなくて刀剣になるけれど、巫女装束に日本刀なんて取り合わせもこの理屈だろう(『グリモア 私立グリモワール魔法学園』の神凪怜などは非常に良い例である!)。これがミニ丈のブレザーだったらどうも自動小銃や機関銃じゃ似合わなさそう。どっちかといえばサブマシンガンやハンドガンになる。それから、ヴィクトリアンメード服に似合うのはきっと狙撃銃だね。こう、ビルの屋上で強風に長いスカートと髪をなびかせ「仕事」の余韻に浸るように遠くを眺める、そんな絵面が目に浮かぶ。

オチ……?

そして「オチ」が示されて、その具体的抽象的を問わない「嘘くささ」に解答が示される(答え合わせをしてくれる「親切さ」は押井守らしくないとほうぼうで言われているらしい)。退屈な展開と反対に疲れを知らぬ思考を巡らし続けた我々は「なるほどぉ……」となる。しかしその代わりにより大きな不条理が新たに提示され、「えっ」とオチる。

で、どんなことを考えながら観進めていたんだよ

具体的な話につきネタバレ防止の折りたたみ

「妄想」なのか?

例えば、まず考えられるのは妄想というパターンである。例のアクションシーンを観たとき、我々はどこかでこう感じる。「男子高校生が退屈な授業中に一度は思い描く類の空想を映像化したような……」。
たぶん製作に駆り立てた精神性とはそういった空想が大なり小なり働いているのだろう。しかし繊細に取り扱うべきは、「妄想」と「空想」の違いである。日常的・慣用的な文脈で用いられる「妄想」は大抵の場合空想のことを言う。これに対し、厳密な意味、心理学・精神病理学的文脈における妄想はより強烈な意味である。厳密な意味での妄想とは、(外的には)訂正不能、修正不能な観念体系ないし世界観のことである。(臨床的には「明らかに誤りであるにも関わらず」という性質が付加されるが、これは本質的でも根源的でもない。(進化説が「正しい」という前提に立てば)アメリカの一部の州では進化論が禁止されているが、ならその州の人々は皆妄想患者のレッテルを貼られるのかというとそんなことはないし、あってもならない。陰謀論も然りである。それが病理と見なされねばならないのは「誤り」であるかどうかは全く関係なくむしろ、その観念体系ないし世界観によって対自的・社会的に著しい障害が発生するときだけである。)

さても、映像作品故に直接的な心理描写は少ない。つまり、主人公の少女(藍)が何を見て何を感じているのかは断片的な情報から推測してゆくしかない。そしてまた、物語が進むにつれて徐々に異様な場面が現れる。しかし展開される映像は第三者的な視点に見えてその実は藍に見えている世界を描いているのではないか、などと考え出す。例えば女子トイレで羽交い絞めにされるや否や逆襲する場面は、不埒な欲求を抱いて言い寄る美術教師にCQBで喉元に鑿をあてがう場面は?養護教諭の差し入れを開封してみれば中にあったのが軍用レーションであった場面は?「実際に起こったことは」そうでなかったかもしれない。病理的な妄想というのは精神生活に溶け込んでいるから(溶け込んでいるからこその妄想であるから)、どこで妄想に切り替わったかなぞ分かるはずがない。
いじめグループや美術教師への逆襲は頭の中で空想されただけの出来事だったかもしれない。養護教諭の差し入れはただのコンビニ弁当だったかもしれない。すれ違いざまに問いかけた少女が呟いていたのはロシア語でも何でもなくただの独り言がたまたまその様に聞こえただけだったかもしれない。卒業試験の最中に打たれ始めたモールス信号ももちろんただの「気のせい」であったかもしれない。
このように、物語が進むにつれてただの「空想」ないし「連想」に過ぎなかったものが、次第に――安易に使われるべき言葉ではないが――「現実」を上書きするようになる。そしてついには「強姦されかけている少女を救出したらその少女が藍本人であった」というあり得ない描写によって、いつの間にか妄想が現実を上書きしていたことが決定的に暗示される

……というミスリードを誘う。押井守が好きな種類の人間というのはこういうリーディングをしがちな気がする(碌に知らないものを憶測に憶測を重ねて語るのは非常に下品であるが)。だとすれば、押井守の意図はその「様式美」に対する反抗、「あーハイハイいつものやつね」という訳知り顔を打ちのめすことにあったのだと考えてみたい。でなければ敢えてその「妄想」よりもずっと不条理な世界観でオチるなんて結末にはならなかったはずで、具体的には同じ夢オチでも『今際の国のアリス』の様なオチになっていたはずである。

茶の味(2004, 石井克人)

茶の味
土屋アンナ


春 + 田舎 + ノスタルジー = ユルい狂気

現代社会ほど正気と狂気が区別されない世界

なんでも、この監督の作風はといえば変人が沢山登場するらしい。『茶の味』もそんな感じである。
しかしこれがまた濃厚にノスタルジックな春の田舎という舞台に違和感なくマッチしている。
まず、春なのであるが、これはご存知の通り春は変な人、もっと具体的に言えば変質者がやたらと増える季節である。そういう何故かしらん人の機制を弛緩させる「ひねもすのたりのたり」な空気、春風駘蕩の空気感が非常に丁寧に描写されている。
また、次の「田舎」という部分についてはどうであろうか。都会にもヘンな人は沢山いるであろうし、おそらく「ヘンな人」の割合はむしろ田舎より多いかもしれない。だが都会の「ヘンな人」はあくまで「おかしい人」として存在している。ないし彼を包囲する眼差し・扱いが「おかしい人」に対する態度となっている。あるいは都会の世界観とは「ヘンな人」を「おかしい人」として存続させる世界観である、とも。田舎の「ヘンな人」との違いはそこである。それは「おかしい人」ではなく、人々の生活に溶け込んだ「変わってる」人として存在している。
言い換えればそれは、正気と狂気という観念が我々が今現在住んでいる世界ほどには成立していないこと、正気と狂気を隔てる分割線が薄墨のように朧げであること、後に完全に隔てられる二つの領域を行き来することを日常が含んでいたこと、狂者という概念が無いために狂者が狂者として振る舞わず狂者が狂者として語っていないことである。(←フーコー的な表現。ひょっとしたら『茶の味』がフランスでウケたのは、フランス人好みの生活感あるジャポニズムもさることながら、こういう微妙な狂気、狂気と呼ばれる前の狂気の様なものを描いているのもあったのかもしれない。)
得てして、その様な分化さは、過去の時代を描くことによってしばしば現れがちであるし、またノスタルジーを描いた作品にはこのような未分化な狂気がしばしば描かれる。

ヘンなコト、ヘンなひと、ヘンな事件……

ネタバレ防止の折りたたみ
巨大化幼女
「変わってる」日常が描かれる。丁寧に。あくまで日常として。
例えばまず誰しも思い当たるのが、庭に生えていたり校庭に寝っ転がっていたりする巨大な春野幸子である。しかしこれは日常である。「まだ」狂気ではない頃の狂気のようなもの。言うまでも無く、幼い子供といえばあり得ないものが見えたり聞こえたりするものである。「七つまでは神のうち」とはよく言ったもので、幼い子供にとっての世界とは条理化されていない、不条理なものである。だからこそ大人から見て不合理な言動、予測の付かない言動を伴うのであり、死や狂気が身近なところに存在している。(尤も、時代進展の加速に伴い人間の早熟化も進む現代においては「七つ」じゃなくて「四つ」とか「五つ」ぐらいまでなのかもしれない。もちろんノスタルジックな世界観を持つ『茶の味』ではやはり「七つ」なのだろうが。)
ヘンなおじさん(おじいさん)
変人の筆頭といえば一家の祖父アキラである。「ああ、確かに田舎にいるいるこんな人」が第一印象。変な人。変なおじさん。ア、変なおじさんったら変なおーじさん。(これ言っても誰にも信じてもらえないのだけれど、『トリビアの泉』が放送されるまでの間、小学校低学年の頃クラスで流行ってたのはドリフのギャグであった。おかしいなあ。あの頃はまだいかりやが生きてたはずなのだが。)
で、この「ヘンなおじさん」を取り巻く世界が例の世界観である。「おかしい人」として扱われることも、また反対に腫物に触るように避けられることもなく、ただ当たり前に生活に溶け込んでいる。
(余談ながらかなり意地の悪い見方であることを承知で言えば、巨大化した別の自分が自分を見下ろすという幸子の現象体験の原因は、ひょっとするとアキラだったのではないかと考えてみたりもするのである。「見られている」というオブセッションな環境であるのではないか、というわけ。また幸子が巨大な自己から解放されるのはアキラの死後すぐのことである。)
ヤクザ坑殺未遂事件
逆上がりの練習をしていた幸子は地面から「生きた人の首」が生えてきたのを目撃する。慌てて(たぶんたまたま近くに居た)特撮オタク二人を呼んできて助けだしてもらう。前日(?)の晩に拉致され生き埋めにされたヤクザであったらしい。序盤で登場する白骨死体といい「いや、その姿勢では埋めんやろ……」と突っ込みたくなるが、そこには目をつぶる。(ちなみにこのヤクザ、拉致される直前に酔った勢いでこの特撮オタク二人に絡んでいる)
が、問題はその後である。つい今しがたまでもうちょっとの所で死ぬところだったヤクザを見ていた幸子が家に帰っての夕餉の食卓シーン。おどろおどろしい程の非日常と家庭の食卓という日常の極みのような瞬間をこともなげに行き来していることそれ自体がまず正気と狂気、日常と非日常の未分化さを物語っている。
「それで、どうしたの?」なんてこれまたちょっと「変わった」出来事でしかないという風に食卓の話題になっている。人一人死にかけていたほどの大事件にも拘わらず誰一人として警察に通報なんてハナから考えてもいない。この「当たり前さ」もユルい狂気の一つである。
催眠
ところかわって、一家の父ノブオはどうやら催眠療法を行う心理士らしい。ほんの少しであるが臨床の場面も登場する。「天使はドライヤーでした……」なんてどこか奇怪なのに愛らしい(要はシュールな)言葉が躍るのもなんだかこの空気感に妙にマッチしているのである。
ときに、ノブオは作中の様子からするにときどき家族の求めに応じて娯楽的に催眠を行うことがあるらしい。それは催眠療法の倫理的にどうなのだろうと考えたくなるが、やはりこういうおおらかさ、ユルさも例の空気を作っているようにも思われる。ちなみに催眠というのは言ってみるなら人工的なヒステリー(ICD-10 F44, 転換性障害または解離性障害)である。
流血漫才
我々の幼い頃の記憶――それも何かの拍子にやっと思い出すような類の忘れかけていた記憶――にはしばしばこのような出来事があったりする。何故ならそれは本来全く別の出来事が接着されていたり、ある部分が誇張されてまた別の部分は忘却されていたりし、また遠い昔の自分は人格的に全く異なっているために何か他人の記憶を見ているような違和感を抱いてしまうからである。よってそうした種類の記憶は大抵異様な、「いま、ここ、わたし」から見ればともすれば狂気的なほどの奇怪さを伴っている。レトロな丸縁ブラウン管テレビに映る放送事故、それは本当にあったことなのだろうか?

『茶の味』の日常性

なんでもありのごった煮感こそ「日常性」?

と、衒学的な話はここら辺にしませう。そもそもポモ的なうんぬんかんぬんはこの映画にはあんまり似つかわしくない視座である。
ある意味「脈絡が無い」。ところがこのような脈絡の無さこそ日常性であったら?
まず、普通に生活していればいくつもの出来事に平行して付き合うことになる(当然ながらそれらの出来事同士にはなんの繋がりもないことがほとんどである)。

これいつの時代の話?

ところでこれはいつの時代の話だろう。件の異様にノスタルジックな空気もさることながら、出てくる道具などを見てもとても2004年のものとは思えない。丸縁のブラウン管テレビなどもそうであるが、他の家電製品も昭和中期の臭いがぷんぷんする、家屋はどれも昭和中期ごろによく見られた日本家屋ばかりであるし、小学校の校舎はそのまんま『となりのトトロ』に出てきたものにそっくりであるし、電話といえば一回を除いて全て固定電話(それもナンバーディスプレイでないタイプ)。その一回にしても携帯電話それ自体が描写されているわけではなく、ただ遠くからそれと思しき様子が描写されているだけである。
逆に当世風なものといえば、2つしか思い当たらない。一つは自動車。ざっと形状を見た感じでは90年代~00年代式ぐらいの自動車ばかりである。逆に農耕機は古いタイプのものが出てくるが、だいたい農機というのは何十年も使うものであり、数台出てきただけで断定するわけにもいかない。
もう一つ、当世風で、しかもはっきりと描写されているものがある。高校の女子制服である。男子制服は昔から続く学ランであるが、女子制服は現代都市風のチョッキ(死語)のアウターに角襟リボンのブラウス、そしてチェックのスカートという組み合わせ。改造バイクでパラリラ言わせたり曲芸走行をグラウンドで披露する不良がいる時代にこの女子制服はどう考えても不釣り合いである。何故なら女子制服がミニ丈のチェックスカートに変遷したのはスカートを袴の様に長くするスケバン時代に対抗した学校・制度の策だったからである。

異彩を放つ女子制服

だとして、敢えて不協和な女子制服を採用した理由は何だろう?
それは「青春モノ」パートを古今普遍の、時代が変わっても変わらない部分として描きたかったからなのだろうか。じじつ、「青春モノ」パートは他の部分とは全く異なり狂気度が全く無いと言って良いほど低い。
では「青春モノ」パートの主人公たるハジメはどんな人物なのかといえば……まあこれが「おぼこい」。イモくさい学ランにこれまた素朴なイガグリ頭、中学生かと見まごうようなあどけない顔付き……
まさにハジメの様な「田舎のおぼこい男子高校生」であった自分にとって、そんな青春パートは中々に甘酸っぱく、私的にもノスタルジックであり、言動一つ一つの子供っぽさがみっともねえなあとも思いつつも憎めず……

参考文献

  • ミシェル・フーコー『狂気の歴史』
  • 夢野久作『いなか、の、じけん』
  • 西岸良平『鎌倉ものがたり』

攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL(1995, 押井守)



経緯

Vチューバ―興隆期にて「所詮人間は肉体から自由になれることなぞ無いのだ」

ご覧の通り、『攻殻機動隊』に関心を持った契機はフォロワーからの布教であった。布教というか、正確にはウカツに彼の前で「攻殻機動隊」の名前を出したら延々と語られた挙句に押井版が君にオススメだぞと布教されるというわけであった。全く以て素晴らしい友人を持てたと思う。何故ならこれでこそ気高く知性的な、私がそうありたいと自らに課す由緒正しきオタクしぐさだからである。
さても、その文脈、具体的には直前だったか何だったかに、確か「月ノ美兔の中の人画像で話題が持ち切りである。所詮人間は肉体を離れては思考することすら出来ぬのだ」とかなんとか、何かの悪役みたいなことを嘯いていた記憶がある。彼がプッシュしたのは私のそういう感性を抑える格好だったと思われる。
少なくとも、この記事の時点で既に延々とコギトの泥沼で泥遊びをしているのだから、彼の洞察は今もって正鵠を射ている。3年越しになってしまってごめんね。

雑感

タルコフスキーみてえだな

雑感としては、何と言うか、都市や生活感の描写が妙にタルコフスキーっぽいなあ、という感じを抱いた。といってもタルコフスキーはまだ『ソラリス』しか知らない。尤も、ソ連版『ソラリス』にしても原作の不条理感が薄れて妙にイデオローグになっているのは押井ことである。が、それは政治的な理由からでやむを得ないし、何より原作の瞑想的な雰囲気までぶち壊しにしてしまったアメリカ版『ソラリス』(ソダーバーグ)なんぞとは比べるのも失礼なほどである。……その瞑想的な雰囲気が要は「眠たくなる」のであるが。流石に3時間アレをやられると私でもしんどかった。

それはそれとして、高層的なだけでなく立体的ですらある未来的都市の夜の煌めき、世界観、雰囲気……なんとなくその描き方が例のソ連版『ソラリス』を彷彿とさせたのである。立体化された都市は未来的でどこか超現実的アバンギャルドであり、輝点の明滅する街灯りはコンソールの様であり、また催眠術の導入よろしく瞑想的である。

『GHOST IN THE SHELL』だけで一つの作品ってわけじゃない?

この手の作品を好んで摂取する人間のカン、もといゴーストの囁きだろうか。なんというか「これで一つの世界を十分に描き切ってるわけじゃないよな……」という消化不良感がある。実際、アニメ映画版『攻殻機動隊』は『GHOST IN THE SHELL』から『イノセンス』に続くのであるが、その『イノセンス』も押井守が監督しているのである。

野暮なツッコミ

あれだけサイバネ技術が進んでるのになんでみんな物理タイピングなんだ……

「コギトのオアシスだーーー!!!」(勢いよく飛び込む)(周囲には泥沼に見えている)

個体性/識別性アイデンティティ(identity)とは何なのか……

ego cogito, ergo sum, sive existo.(我思惟す、以て我であり、また我存ずる。)
ご存知の通り、ego――「私は」、また「自我」――の発見はデカルトに遡る。複数形の「我々は」ではなく、また無人称の「世間が」ではなく、個体=単数形の「私が」存在するとは何か?一人称の基盤は思惟することにある、というのがデカルトの……エーイめんどくせえ!2年ぐらい前までの俺ならご親切にこと細やかにそこから解説したかもしれんが、んなことから書いるからいつまで経っても書き上がらんのだ!とにかく俺が語りたいのはcogito命題の話!いいね!?

アイデンティティ、というのは今や手垢にまみれただいぶ下世話な言葉になっている感がある。これはどうやらidentityという言葉を用い始めたエリクソン自身が80年代に言っていたぐらい素早く行き渡った言葉であるらしい。逆に言えば、それぐらい後にidentityと名付けられる観念が社会の至るところで欲されていたことの裏返しでもある。ところでこの原義は何なのか。identifyと言えば「識別する」の意味、identifierで「識別子」(IDというのはこれの略語)だから、identityというと「識別性」の意味になる。いわば他→自の性格(心理社会的同一性)。これに自→自の側面(対自的同一性)、自→他の側面(対他的同一性)を含めるとエリクソンのアイデンティティ観念に近づく。
しかしエリクソンは、self-identity(自己個体性)という観念を確立するに当たりもう一つの側面を付加した。それが自己連続性(ないし自己斉一性)であるが、これがつまり記憶ないし記録である。つまり、自己連続性の欠如したselfはどのようなものになるかと考えると、この好例が『ドグラ・マグラ』である。
ここら辺で一旦まとめてみよう。デカルトのcogitoは対自的identityであったが、それ以外にidentityを構成する相が三つある。例えば、自己連続性が欠落すると「我思ってたっけ?故に我在ったっけ?」となる。cogito命題は「我思う」とは言っているが「我思っていた」については沈黙しているのである。

あなたが同僚に見せようとした写真だ。ご覧なさい。

……誰が映ってます?

確かに映ってたんだ……

俺の娘……まるで、天使みたいに笑って……

その娘さんの名前は?奥さんとはいつどこで知り合い何年前に結婚しました?
そこに映っているのは……誰と誰です?

だとして……?

疑似体験も夢も、存在する情報は全て現実であり……そして幻なんだ。

どっちにせよ一人の人間が一生のうちに触れる情報なんて僅かなもんだ

種として生命は遺伝子としての記憶システムを持ち、人はただ記憶によって個人たる。
たとえ記憶が幻の同義語であったとしても、人は記憶によって生きる。
コンピュータの普及が記憶の外部化を可能にした時、あなた達はその意味をもっと真剣に考えるべきだった……
野暮な補足であるが、ここで言う「記憶の外部化」とはおそらく今現在の我々が親しむテキストデータや動画データ(=「記録」)ではなく、より大脳生理学的・心理学的な意味での「記憶」である。例えば我々はどれほど克明なメモ、親切な解説書を読んでも、実際にはその文字列を読み、そして一連の意味を生成することによって●●●●●●●●●●●●●●●●●●●ようやく「記憶」を再生できる。あるいは了解が生じる。だがもしその「記憶」をダイレクトに外部化するとしたら?これは多分そういう意味である。

思考実験としてのSF

いよいよ思考実験の性格が濃いものになる。ううーん、これでこそSFである!思考実験でないSFなぞSFとは思えないし(少なくともそのようなSFはSFでもサイエンス・フィクションではなくサイエンス・ファンタジーと呼ぶべきだろう)、この説教臭さと衒学性こそたまらないのである。面白くない人にとっては拷問の域だろうが、我々の業界ではご褒美です。

さても、『GHOST IN THE SHELL』が思考する実験とは次のようなものである。

P1.あらゆる個人が電脳に絶えず接続し、電脳を常に利用しているとき、それは電脳というハイブマインドが誕生していることにならないだろうか?

それはヘーゲル-マルクスの疎外論を彷彿とさせる。即ち、記憶の外部化とは自己外部化=自己疎外セルフ・エイリアネイション(self-alienation)の一形態に他ならない。まず、ヘーゲルにおいてはこの疎外が(今の言葉で言えば)心理社会的同一性を形成してゆく(確かこういう話だったと思う。違ったら教えて。)。対してマルクスの方は労働という(本来人間的なはずの)行為が外部化=疎外エイリアネイションされることによって、ついには人間性それ自体までが外部化され、ついには人間と労働の関係性が主客転倒するにまで至る……と、こうである。
なお補足であるが、alienationは慣例的に「疎外」と訳されるが、いまいちピンと来ない訳語だと思う。「外部化」とか「ひとり歩き」とか訳せばまだよかったようなものを、と思う。ちなみにalienationは法的な用語としては「譲渡」という意味がある。原型のalienはご存知「エイリアン」。ただし「異人ストレンジャー」「よそもの」みたいな排他的なニュアンスは含まず、「来訪者」ぐらいの意味合いになるらしい。また、「alien化」が件の「外部化」「ひとり歩き」になるのなら、多分alienを「はぐれ者」と訳すことも不可能ではないだろう。I'm an alien. I'm a legal alien. I'm an Englishman in NewYork....
だとして、人格的言動や労働ではなく、記憶を外部化=疎外エイリアネイションしたときに、何が起きるだろうか?マルクスが労働疎外を発見したように、外部化された「それ」がひとり歩きを始め、独立して働き出し、ついには我々の脅威となる……そんなことが起きたら?……「人形遣い」事件の真相とはこれであった。

ゴーストって何

表題にも登場するゴーストとは一体何であるのか。ハリウッド版『GHOST IN THE SHELL』はどうもこれを「第六感」か何かと安直に理解してしまったらしく、<筋金入り>オタクがそこを舌鋒鋭く批判する言説を何回か見た覚えがある。ということは、それだけ重要なキーコンセプトだったのだろう。ゴーストという概念を誤解しては全く別の作品になってしまうぐらい重要な。

ではそのゴーストとは一体何だろう。「思考実験:記憶疎外」というセンセーショナルに隠れてしまったのか、どうにもこれはピンと来ないものになっている。少なくとも情報不足?
しかしそれでも、P1に付随して次のような思考実験を考えることは出来るだろう。

P2.また、もしそれでも全ての個々人が個体性アイデンティティを保ち続けるとすれば、何が可能にさせるのだろう?またそれは何と呼ぶべきだろう?

どうもこれが押井守の言いたいゴーストなのではないか、とアタリを付けている。それは<人形遣い>と一体化した草薙素子が、それでも「草薙素子」で在り続けると断言できる何かとして描写されるのだろうか。あるいは続編『イノセンス』で、草薙素子に代わって主人公を務める(義体化率の低い)バトーを通して描写されるのだろうか。いずれにせよ、続編『イノセンス』も早く観てみたい。

(漫画版)イエスタデイをうたって(1998-2015, 冬目景)

これもストイックに作品を鑑賞する古き良きオタク、得難き隣人があるとき『イエスタデイをうたって』「是非とも観て感想を聞かせて!嫌いなら嫌いでいいから」とツイートしていた。「観て」と言うからにはアニメなのだが、残念なことに高知県中部にも鳥取県西部にもTSUTAYAの取り扱いは無く、GEOは会員登録しなきゃ在庫検索も出来ないという有様で、Prime Videoはdアニメストアでないと観れないという有様で八方ふさがりであった。なので致し方なしに原作の漫画版の方を購入することになった。
なお……わりとこの作品は酷評する格好になる。本当にごめんね。

解題「イエスタデイ」="Yesterday Once More"?

表題「イエスタデイをうたって」はRCサセクションの同名の楽曲が元ネタらしい。 ……聞いてもよくわからん。
その代わり、じゃあこの「イエスタデイ」って何のことというとこれならわかる気がする。
ご存知カーペンターズの名曲『Yesterday Once More』である。若い頃の甘酸っぱいノスタルジーに思い耽る歌。楽曲『イエスタデイをうたって』で何度もリフレインされる「イエスタデイをうたって」とねだる相手が聞きたいのは、あるいは一緒に歌いたいのは、多分この曲のことだろう。

実は邦訳カバーがあったりする

実は、この『Yesterday Once More』、邦訳カバーがあったりする。
カバーしたのは誰かといえば……なんとあの内山田洋とクールファイブ! クールファイブといえば『長崎は今日も雨だった』『東京砂漠』辺りの湿度と温度の高い、いわゆるムード歌謡がお得意であるが……見事に四畳半フォーク。原曲の世界観をそのまま当代の日本にローカライズしている。その結果が四畳半フォークっぽくなるのだから、なんだか面白い話である。
ところで……何でボーカルが前川清じゃないの?なんか、こう、その……すげー、あの……ズコー、な……いや、前川清があのねっとりボイスで歌ってたらやっぱりムード歌謡になってた気がするけど。

四畳半の時代の残り香は時代とともに……

『イエスタデイをうたって』が連載を開始した1998年はそんな四畳半の残り香がする時代だったのだろうか。1998年がモデルの第一巻と2015年がモデルの第十一巻を読み比べると確かになんだか空気、雰囲気が違う。世相、空気感が微妙に伝わって来る生活モノだからこそこういう現象も起きる。時代の空気感の移り変わりに目を向けてみるのも長期連載かつ現代が舞台の作品の楽しみ方の一つである。
例えば登場する道具一つとっても違って来る。分かりやすいのは電話。電話はここ2, 30年ぐらいの時代を映してきたアイテムである。「一握りの十円玉盛ってボックスまで」(1980年, 村下孝蔵『ひとり暮らし』)の時代があり、「ポケベルが鳴らなくて」(1993年, 国武万里『ポケベルが鳴らなくて』)の時代があり、色々あってついには「既読になった画面を見ながら」(2013年, ソナーポケット『片思い。~リナリア~』)へと至る。それら一つ一つがその時代を映している。翻って『イエスタデイをうたって』作中も始めは公衆電話だったのがやがてフィーチャーフォンに変わり、ついにスマートフォンが登場しだす……なんてところに気付いてクスっとくる(下品なのは承知デス、ハイ……)のも時代と共に連載を進めてきた作品に特有の面白味だったりする。もっとも、これが深刻な形で矛盾を来たす場合もあるのだけれど。『頭文字D』とか。(いろは坂編ではランエボIIIと戦ったのに神奈川編で戦ったランエボは……)
電話の他には煙草も一つ。序盤では野中晴(当時未成年!)が煙草を吸うシーンが時々出てくる。が、中盤から喫煙シーン自体が少なくなる。やはり煙草は時代の移り変わりをちなみにアニメ版では野中晴は最初から煙草を吸わない。似た話では『総務部総務課 山口六平太』での煙草の扱いも似たような変遷を辿った。さみしい。とてもさみしい。

なんか納得できないオチ

なんか消化不良。単純に「つまらない」で済ましたくもなるが、あの古風なオタクが「是非読んで」とブロードキャストしていたのだから、そんな退屈な本のはずがない。何か分からなくてはいけない。何か分かってみたい。何か分かるまで考えてみたい。……と考え出す。

「なんとなく」納得できないときの処方箋:「その後」を考える

こういうとき、私が試みるのは「その後」を考えてみることである。例えば前節でちらと触れた『ソラリス』であれば、不条理にも負けずその「分からなさ」を分かろうとするケルヴィンの、その後はどうなったのか、とか。ちなみにあくまでこれは「なんとなく」への処方箋であって、「納得できない」ことへの処方箋ではない。

……つまるところ、あれだけ「『いい人止まり』をやめよう」「『本当の気持ち』に向き合おう」みたいな話をしておきながらそれかよ……という所に尽きる。森ノ目榀子とはお互いの「いい人止まり」だから別れる、それはまあ……本人達がそう思うならそうなんだろうか、という具合に不承不承ながら納得できるかもしれない。だが結局選んだ野中晴とはどうなるのか?最終盤で成立したこのカップルの進展はキスシーンで終わる。いや、「成立」がゴールなのかよ。そうじゃないだろ。ここからだろ。ここからいよいよ「いい人止まり」を抜け出してゆくんじゃないのかよ。それがテーマだったはずなのにそれを描かずに終わるってどういうことなんだよ。
……と、なんだか打ち切りでも食らったんじゃないかと心配してしまうような消化不良な終わり方であった。
というのも、「いい人止まり」を辞めるとは、どう考えてもそんな「お綺麗な」話にはならない。なぜならそれは「本音」を常に含むからであり、人間の「本音」がそんなお上品なものなはずかないからである。具体的には性欲、あるいは独占欲、あるいは支配欲、あるいは……本音を無視も抑圧もせず、かといって無反省に放縦するでもなく、時になだめ、時に開放し、時に変換し、時に歪曲し、時に投影するのが成熟した自我なのではないか?そのような汚くとも「本音」であるものを抑圧し続ける恋愛は、どこかで限界が来て(ないしは綻び、ボロが出てそこから)破綻するのではないか?そして果たしてそんなグロテスクな内省があったろうか?嫉妬心に狂い身を焦がすドロドロした心理描写が?消しても消しても止まない性欲と自制の執拗なドッグファイトが?自分の欲深さにフッと気が付いて陥る深い自己嫌悪が?

少なくとも、この終わり方ですぐに私が直観的に抱いてしまった予感とは、次のようなものであったと言うことは許されるだろう。野中晴と出来た魚住陸生は、やはり森ノ目榀子と付き合っていた頃と同じように、あっさりした関係のままダラダラと引きずり、マンネリの中でスッキリと自然消滅し、あっさりと終わる。本人達には未練の無い綺麗な思い出だけが残りまんざらでもない……とか。
しかしそれでは森ノ目榀子と付き合っていたときから進歩が無いということになる。そこで「今度はそうはならない」を示すのが作者の義務であったと思うのは……期待しすぎだろうか?

女性作家の描く男性……なのかなあ。。。

男性キャラクターも妙に分かりづらい。内省的、過思考的、決断力の欠如……といえば確かに私が他人事と思えない話のはずなのだが、何故かいまひとつ共感しにくい。
あんまり言うもんじゃないと思うが、男性の恋愛心理についての理解が浅いんじゃないか、という疑念が拭えない。これもあくまで疑念である。なにせそこまで感情移入できない、「分からなさ」を突き止めるまでにすら行ってない、もっと言って作者の思考感性を読み解くにまで至れないのだから。
とりあえず言えるのは、男性としての魚住陸生に、感情移入できないということである。性欲とどう向き合うかは男性にとっての恋愛で一番重要なことだと思うのだけれども、それが一切無い。その痕跡すらほとんど見受けられない。もちろんそれは性描写を一貫して避けるという作者のポリシーが働いているのであろうし、それなら尊重すべきなのだけれども、性的葛藤まで描写を避けるのはいくらなんでもやりすぎではないのか……

その他キャラクター雑感

森ノ目榀子

この人も分からん。本気で分からん。というかこのタイプは個人的に一番苦手なタイプである。こんな凄い人を恋人に迎えようものなら自分の存在に危機感すら覚える。息苦しくて怖くてたまらなくなると思う。何せ学生時代から文字通り「憧れ」の、全てにおいて敵わない「私的雲の上の人」である。

しかもその上教員という大変に多忙な仕事でありながら、同棲中は家事の大半を引き受け、毎日甲斐甲斐しく同棲相手(魚住陸生、早川浪)に手造り弁当を用意する。一体何なんだこれは。……そういう所が、つい「いい人」を選んでしまう、そういう所なんだろうなあ……

早川浪

一番共感できる男性キャラ。……共感の軸が完全に「悔しさ」である。俺らしいや。
傷心の末に自暴自棄になるような幼稚さも他人事と思えないようで憎めない。挙句に莉緒の所に転がり込んでヒモをやってる無様さも何だか嫌いになれない。そんでもって自堕落なヒモに安住することを結局良しとせず、莉緒の元を去っていくのであるが……なんでそこを端折った。その再生の過程をもっと見たい。作中で一番見たい。
『イエスタデイをうたって』のタブー、つまり決して明示してはならないもの、あったこととして語ることも許されないものは、先述の通り性描写である。が、早川浪-莉緒のなりゆきほど性描写が想像しやすいものもそうそう無い。莉緒の元にいた頃のある種セラピックな体験の中で一皮剥けた様な感があるが、そこに何か決定的なことがありはしなかったか?例えば……下品なので(=作品にそぐわないので)やっぱこの話なし。「あったかもな」で終わらせるのが良い。

狭山杏子

個人的に一番好きな女性キャラ。遊び心(それはしばしば我儘ですらある!)と思慮深さの塩梅が非常に魅力的。
ウエイトレスの制服にメード服を採用して野中晴に着せた挙句、「なんで?」と聞かれようものならあっけらかんと「趣味」と答えてのける遊び心。こういうのが良い。なんなら時々自分もメード服着てカウンターに立っててもなんだか納得させられそう。

(ビジュアルノベル)グリモア 私立グリモワール魔法学園 histoire(2020, 栗原寛樹)

シナリオが完結するという形でサービス終了を迎えたソシャゲ『グリモア 私立グリモワール魔法学園』、そのオフライン版アプリ。これが実に作り込まれているのである。初めは(陳腐な)学園ファンタジーとして物語が始まったはずが、いつの間にか科学SF、ミリタリー、歴史改変、などのハードでソリッドな要素を盛り込んでいき、やがては……おっと、ここから先はネタバレになる。詳しいことは是非ともアプリをダウンロードして欲しい。

その前に……ちょっと自慢させて





……ということがあったんだ。

……と、言いつつも実は本編はゲネシスタワー編花咲きまでしかやっていなかったりする。なのでオフライン版はそこから読み進めていたのであるが、これはそこからの感想・考察、そして解釈となる。
ネタバレ防止の折りたたみ

宇宙生物学SF!

宇宙「人」ではなく宇宙「生物」ということ

地球外生命体との接触を描く作品は多い。『未知との遭遇』や『2001年宇宙の旅』シリーズなどはよく知られている。……が、いずれもその生命体の描かれ方は宇宙である。あくまで了解可能、コンタクト可能、対話も出来るし戦争も出来る、利害や快不快など何を良しとし何を悪しとするかが理解可能な「人」として描かれている。何故か「人」としてしか描かれない。反対に、利害や快不快という観念すら「無い」あるいは「窺えない」、ただ何か「生きている」としか言えない対象という宇宙生物●●として描かれたものは少ない。
地球外生命体を宇宙人ではなく宇宙生物として描くことに成功しているSF作品といえば、知る限り『ソラリス』の他はクトゥルフ神話ぐらいしか寡聞にして知らない。それも、(クトゥルフの様な)「おぞましい巨大な怪物ベヒーモス」(behemoth)としてではなく、すること為すこと敵意なのか好意なのかの時点で一切が「分からない」不条理な生物的存在者としての宇宙生物……となるとこれは本当に稀である。そのような人間の知の彼岸にいる存在者を描かんとする技巧あるいは執念こそ、『グリモアA』後半が描こうとしていた、『グリモア』をしめくくる哲理であったように思われる。

『ソラリス』への熱いリスペクト!

『ソラリス』へのなみなみならぬリスペクトを確信したのは最終レイドイベント『epilogue』6話のこと。

ああ…ここまでくると、もう霧の中か

転校生君。目を開けていいよ。見てくれ。

きっと面白いものが見える…


…やあ、こんにちは。

君は最初、人間の事を認識してなかったって話だけど…

到着した矢先に歓迎されて、興味を持ったかい?

こうして、僕の事を見にきたのかい?

……

それとも、転校生君の体の中にある…

【君】を感じ取ったのかい?

まあ、細かいことはどうでもいいんだ。さあ…

話し合おう。交流しよう。

僕たちが【できなかったこと】を…

やりなおそう。


見てくれ。転校生君

僕らのまねをして顔を作ってる。そしてじっくりとこちらを観察している。

知的生命体の正しいファーストコンタクトだ。

さあ、リゼット君の記憶を渡して。


…………

これは……

これは…なんだ…

…………

本当は、こんなに簡単だったんだ。

こんなに簡単に、僕たちは知り合えたんだ。

…………

さあ、対話を始めよう。

もし『ソラリス』の世界で、「宇宙ではない知的生命体」というものを少しでも真剣に考えた人類がファーストコンタクトを取っていたら?

…遊佐。何が起きた。教えてくれ。

教えるまでも無い。本人から聞いてくれ。

本人?

…………

! そいつは…

…………

…あ……んん……

…あー…

リゼット…?

…すがた…を…借りた…

この…ほしの…ものの…

わたしの…すがた…

おお…遊佐、お主やったか…!

…霧の、魔物…

…は、はじめまし…て…


中略

…侵略者なんかじゃ、ない。

クリスマスのあの宣言(引用者註:『ブレイクアウト・クリスマス』参照)は、本当に時間がなかったからなのね…

あれは、ただの旅人だわ…

本当に私達は…ただ、交わす言葉を持たなかっただけで…

…………

…………ッ。

(中略)

そうね。あれを見たら…

…魔物、なんて呼べない。

もし『ソラリス』のケルヴィンが物語の終わりの後、『グリモア』のジャン=マリー・ヴィアンネの様に辛抱強く「魔物」との交流を続けたら?

…りかいしにくいだろうが…

わたし…今の【我が友】から、わたしのきおくをえて…

ぜんぶがわたしになった。

だから…

わたしはもう…ここでくらしたのだ。

お前たちと戦って…ここで命を終えて…

リゼットとなって…ベヒモスと戦って…

…すべて、わたしだった。

苦しみぬいて死んだわたしも…

お前達をほろぼしたわたしも…

喜びの中、きえたわたしも…

…不思議な体験だ。お前達と、こんなにも様々にかかわった。

このきおくを思い返しているだけで…時間つぶしになるだろう。

この青いほしで命を終えるよりも…

ずっと、たのしそうだ。

もし「ソラリス」が、辛抱強い交流の末に自我ダス・イッヒを顕現すれば?個体性アイデンティティを顕現すれば?
そして記憶の蓄積こそがその唯一の方法だったとしたら?

…霧がなくなれば、お前達の魔力を刺激するものもなくなる。

…魔法使いも生まれなくなる。

まったくあたらしい世界だ。

楽しみだな。

…ああ…楽しみじゃ。とてもな。

もし、ソラリスも人類を理解しようと苦心していたのなら?

……そんなことを考えずにはいられないのだった。

歴史改変SFとして

『ジョンバール分岐点』の頃からなんとなく感じていたことであるが、グリモアのフィナーレは霧の魔物との戦いが終結する……というだけでなく、ひょっとしたら歴史改変の末に霧の魔物が存在しなかった世界が誕生することで、グランドフィナーレになるのではないか、と。霧の魔物が存在しない世界、つまりそれは今現に我々がこうして暮らしているこの世界。この世界を誕生させるために、可能世界であの老獪な少女達が本当に●●●活躍したのだとしたら?
そういう種類の現実味、虚構性と現実性の混濁、メタフィクショナルな混乱は歴史改変SFに特有の面白味である。
面白いことに、(『Histoire』で最終任務を担った)遊佐鳴子のラストエピソードではこの可能性が仄めかされて終わる。「世界の謎に挑む」に、こんなメタフィクショナルな含みが最初から織り交ぜてあったのなら?

おわりに

学園ファンタジーとして始まった『グリモア』は歴史改変SFかつ宇宙生物学SFとして終結した。
ところで、『グリモア』にとってこれほどに重要な作品でありながら『ソラリス』の書名も、著者のスタニスワフ・レムの名も、『グリモア』作中には登場しなかった。ジャン=マリー・ヴィアンネジョンバール分岐点アレシボ・メッセージは存在するにも拘わらず。である。しかもそれら我々の世界にも存在した人物・存在する事物が『グリモア』世界が平行世界であること、『グリモア』が歴史改変SFであることを暗に語っていたにもかかわらず、である。

果たしてこれは何を暗示しているのか?グリモア世界に『ソラリス』は存在しない著作だったのか?

たぶん、そうだと思う。
そうだったらいいな、と思う。

霧の魔物があるときスタニスワフ・レムの名を借りて、『ソラリス』を著したのだとすれば?
東雲アイラのように、あるいはアイラ・ブリードのように、名前を変えて。
もしくはアイダ・リーヴスのように自分の手で「世界の記憶」を記したくなって。

もちろんそれは我々の世界、霧の魔物が江戸で去っていった世界、「ポスト・グリモア世界」で。



そうして、実は霧の魔物その人が著した『ソラリス』が、巡り巡って栗原寛樹という作家を通して『グリモア』を生んだのなら?
































































































…なんて、ことを考えてみるとゾクゾクするんだ。
フフフ…よく出来た陰謀論みたいだよね。

中々に楽しい思考実験じゃないか。
これでこそSFだと思わないかい?

…………

…ところで、だよ。

この記事を書いた「僕」は、一体誰なんだろうね?
「誰が」この記事を書いたのだと思う?

ねえ?「転校生君●●●●」?
…僕のこと、覚えてるかい?